Ghettocentric Cinema

 二つの映画を立て続けに観た。まずClockers、次にLa haine。この二つの映画は地理的舞台としてスラムやゲットー、登場人物としては黒人その他のマイノリティ、さらに労働者階級の人々が中心になる。周縁化された場所で、周縁化された人々の物語というわけだ。しかし、周縁的世界が舞台として、文化として中心的なものとしてせり出してきているように描かれているのが面白いところだろう。
 つまり、ゲットーが周縁的な空間として単純に設定されているのではない。都市の周縁でしかなかったその空間がさまざまな形で中心として熱を帯びているように描かれているのだ。周縁に熱を集中することで都市中心部の文化的な熱を奪い、脱中心化するかのような世界像がそこには提出されている。さて、そこではどんな手法が使われているのだろうか。思いついたことを書き連ねてみる。

 ・登場人物同士がニック・ネームで呼び合う。
  これは彼らにしか通じないような秘密の暗号を持つことで、特権的なコミュニティーの形成を意味しうる。親しさの輪により内部に熱が生まれる。その一方で、彼らのニック・ネームを知らない人間は周縁化される。Clockersの中の登場人物のニック・ネーム”scientific(科学的な)”というのは、外部の人間にはなかなかピンとこない。Trainspottingなども登場人物のほとんどがニック・ネームというのは共通している。
・公共空間の占有
Clockersではドラッグ・ディーラーの主人公が常に住宅街の中心にある公園のベンチに座っている。
・強力な暴力描写
 これは当たり前すぎて面白みがないが、一応書き留めておく。ルールや道徳を大きく踏み外した社会の有り様を代表する熱い場所としてゲットーは中心化される。こういった描写に神経症的なまでのエネルギーを発揮する映画監督として、Ginetto Vincendeauはマーティン・スコセッシ、クエンティン・タランティーノ、ジョン・ウーなどを挙げている。
・マスキュニティーの強調、ポリティカル・コレクトネスの欠如
 黒人の肉体がマスキュリンなものとしてよく半裸の状態で現れる。La haineではボクサーで黒人のHubertがその典型。頻繁に画面に登場する銃、スポーツ・ギア、軍服、スキン・ヘッズなどは男性性を象徴(Vincendeauによる指摘)。また、強い家父長制的価値観が物語の男性の登場人物の価値観に強く反映されている場合が多い。ゲットーやスラムが中心となっている映画では、女性の人物たちはほとんど些末な役柄の場合が圧倒的。
 Clockersでは、黒人の死体を目にして白人警察官たちはにやにやわらっている。La haineでは、仲間であるはずの黒人の男に他の登場人物がしょっちゅう人種的な悪態をついている。
・権威者への軽蔑
特に警察は目の敵になる。La haineでは警察や警察官はずっと登場人物たちに「豚」呼ばわりされるし、Clockersでは主人公は警察の者に常に反抗的だ。またVincendeauによれば、警察官の攻撃性が主人公達の暴力性を正当化する役割を担っているという。
 
 ・サブカルチャー
 ゲットーにおいて熱い文化を構成するものとしてダンス、ラップ、ドラッグといったものが描かれる。ダンスやラップは黒人文化のエンパワーメントとして、ドラッグは人間の欲望や逃避の装置として。また、Vincendeauは主人公達のポピュラー・カルチャーとの深い関係性も指摘している。例えば、落書き、ファッションなど。
 ・男性世界の中心化(Vincendeauによる指摘)
映画に現れる女性は少数。現れた女性キャラクター達は男達の攻撃や軽蔑の対象となる場合が多い。La haineの女性ジャーナリスト、ギャラリー内での女性達、電車内での物乞い。
 ・性的な要素よりも社会的な要素が中心化(Vincendeauによる指摘)
 つまり、ありがちな恋愛物語は排除される。Clockersでは麻薬の問題、La haineでは失業問題が前景化している。どちらも恋愛的要素はまったくなし。
参考論文
Ginette Vincendeau Designs on the Banlieue:Mathieu Kassovitz’s La Haine (1995),eds.Susan Heyward and Ginette Vincendeau French Film (2000)

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