アメリカにおける消費主義の出現は19世紀後半だと言われている。
シカゴ博も、その契機になったイヴェントだと論じる研究者は少なくない。
彼らの主張する理由はまちまちだが、それに付け加える形で個人的な仮説を立ててみる。
photo credit: Sergey Sus via photopin cc
pleasure of commodity consumption(商品を購入することの快楽)を加速させた大きな要素はスペクタクルではないか。僕は今のところ、スペクタクルをvisual excitement(視覚的な興奮)を提供する光景や風景くらいの意味で使っている。
一般的に言って万国博覧会は、建築物・文化的展示品・機会技術品などで会場があふれかえっていたスペースである。会場に足を踏み入れた瞬間、19世紀末後半の万博入場者たちは圧倒されたに違いない。
なにせ、見たことも聞いたこともないような国のヒト・モノであふれている初の国際的なメディア・スペースがそこに目に見える形で現れたのだから。万国博覧会の会場そのものがスペクタクルだったはずだ。
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ただ、当時の人々がそういった光景から受けたインパクトを現代に生きる僕たちが想像するのはなかなか難しい。そこで、現代の消費生活の一部として溶けこんでいる百貨店、デパートメント・ストアを例に挙げると、ぐっとわかりやすくなる気がする。
デパートに家族で買い物に出かける。そこには商品がずらっと並んでいる。これは今や当たり前の風景だが、まだまだ世界がとても大きく見えた三歳くらいの僕は、当初その光景に興奮したのではないかと思う。個人経営の町の小さなおもちゃ屋に比べると、デパートのおもちゃ売り場はオープンスペースで広さに余裕がある空間だ。おもちゃそのものももちろんだが、そういった開放的な空間もスペクタクルを構成する一つの要素だったに違いない。
子供はおもちゃ売り場、母親は洋服売り場、父親は日曜大工コーナーなど、異なったニーズに対応する一方で、ファミリー・レストラン形式の食堂などは家族が自然に集い、統合するような空間を提供する。
自分のニーズに合っているモノばかりではないが、デパートは多様な消費の選択肢を売り場という空間内にちりばめている。それは、実際に商品を買わなくとも、気になった商品を手に取ったり、試してみたり、眺めてみたり、そういったDistraction(気晴らし)という娯楽をも提供する。
今やあちこちに巨大ショッピング・モールやシネマ・コンプレックス、テーマ・パークがあり、空間的開放感・商品の品揃えなどは多くのデパートのスペクタクルを軽く凌駕するものが増えてきた。
巨大ショッピング・モールやデパート、テーマ・パークやシネマ・コンプレックスもなかった十九世紀後半に現れた万国博覧会が提供したスペクタクルは当時のわれわれの想像を絶するものだったに違いない。そういった場の雰囲気やスペクタクルに圧倒されることを楽しみつつ、そこに展示された(多くの場合、海外からやってきた国際的な)商品の物珍しさや商品の多様性にも人々は驚嘆し、購買欲をそそられたに違いない。
うろ覚えだが、世界で初めてのデパートメント・ストアは万博の商品を、万博の敷地外で売ることを目的としていた、という記述をどこかで読んだ記憶がある。きちんと確認する必要があるが、万博そのものが百貨店のアイデアとして消費主義の発火点となったことは大いに考えられる。
とても興味深い記事ですね。熟読してしまいました(笑)。
確かに僕らは、非日常の空間や場面において消費行動を行っているのかもしれません。
インターネットの仕事をしている自分として思ったのは、インターネットは日常か?非日常か?
ユーザに対してスペクタクルを提供する事ができるのか?
と言う点です。
もう一度記事を読ませていただいて、考えてみたいと思います。
インターネットが日常か非日常か、という点は人それぞれにちがってくると思いますが、日常だと感じる人が増えてくるのでしょうね、全体的な割合としては。
FLASHでスペクタクルを演出するアイデアは広くなされていると思いますし、、レイアウトだけでなく、コンテンツ、情報の見せ方と言った意味でのスペクタクルもあるでしょうね。
ともかく新しい消費空間の一部としてインターネットの影響が強まってくるのは自然な流れだと思いますね。消費空間の演出のしがいもますます増えてくるでしょうね。