教育現場での広告戦略

ChannelOne.jpgNo Logo(Naomi Klein著,p89-90)によれば、カナダにChannel Oneという若年層を対象としたテレビ・サービスがあるという。この番組とそれが提供するCMを視聴することに同意した学校側は、無料でそのコンテンツ、受像器の提供を受けることができる。Channel Oneのコンテンツは、学習の視聴覚教材を主にフィーチャーしている。
 このサービスは地方自治体の教育財源の削減が進む一方で、視聴覚教育などの設備投資が年々重要となってきている学校側のニッチ市場を満たす形になっているのだ。しかし、Channel Oneのコンテンツ受像器に関して、そのヴォリュームやチャンネルをコンテンツ受容者はコントロールすることはできない。授業とはまったく内容的に関係を持たないCM内容も生徒は教材の一部として必然的に享受せざるを得ない状況だ。


  また、企業によるコンピューターの無料貸し出しサービスなどの場合も、そのコンピューター利用中に生徒たちはさまざまな企業広告を見ることを強いられるという。 
   特に、Channel Oneのサービスはカナダ国内の12000もの学校(生徒にすれば800万人規模)に普及しているという。
 このサービスがこれだけ普及している場所がカナダの教育現場というのが僕にとってはショックだった。というのは、僕にとってカナダはメディア・リタラシーへの取り組みに関しては世界的にも先駆けであり先進国だと僕が認識している国だったからだ。
 まずカナダはアメリカに隣接しているという地理的な状況からアメリカのメディアの影響力が強い(実質的にアメリカのテレビ電波やケーブルコンテンツを共有している場所もある)。そこから、カナダ人としてのアイデンティティを広く脅かす結果などをもたらすことが懸念され、メディア・リタラシー(メディアの内容を鵜呑みにしないでクリティカルに読み解く能力)教育が国語の授業などで広く行われるようになってきた歴史がある。
 しかし、そんな教育現場も、地方自治体の財源カットには悲鳴を上げ、デジタル・ディバイドなどに対する懸念などもあり、こういった民間の会社のサービスに手を出さざるを得ない状況に追い込まれているようだ。
 もちろん、幼稚園や小学校の低学年では、クリティカルにメディア・コンテンツを読み解くようなレヴェルに達するような幼児や生徒はほんとうにごくわずかだろう。むしろ、この時期の記憶は顕在意識だけでなく潜在意識の奥底に無批判に深く刷り込まれるだろうから、よけいに強力なはずである。
 僕の通っていた田舎の小学校でさえ学校外の情報からスポーツ・ブランドをクールなものとして子供たち(当時の僕も含まれていた)はある種崇拝していた。学内外、両方からブランドや商業戦略をやられると、その子供の親としてもつらくなるのではないか。
 そういえば、詳しくはよくわからないが現在の日本の小学校の女子生徒をターゲットにした日本独自のブランド戦略も着々として進行しているらしい。彼女ら向けのファッション雑誌やライフ・スタイル(?)雑誌なども売れているらしい。さまざまなメディアが幼少の早い時期から彼女らにいっぱしの消費者としての意識を持たせようとしているのは明白だ。
 自分の問題として引きつけて考えるために、自分がそういった女の子の親になったと仮定するとどうだろうか。頭がくらくらしてくる。そもそも、僕らの世代も完全に消費社会に育った世代なのである。もうちょっとこの想像というか、妄想は保留しておきたい。

写真はNo Logoのp86ページ掲載の写真をスキャンしたもの。しっかり、子供たちがワイアードの状態になっていますね。

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