Film&VisualCultureクラス用に書いていたエッセイ、映画15minutesに関する内容が一通り形になった。
15minutesは巨額な予算が投じられた超大作のハリウッド映画である。社会批判的な内容とメッセージは十分感じられるものの、それをオーディエンスに伝え、考えさせるためのナラティヴは、多用されているスペクタクル(迫力のあるシーン)によって崩壊しているのではないか。もしくは、ハリウッド映画が近年頻繁に作品に盛りこむようになった社会に対する問題意識を思わせるテーマ群は単なるステージングの便利な装置として、映画テクストの生産者側が消費しているだけにすぎないのではないか、ということを問いかける内容。
今回のエッセイを通して、映画におけるスペクタクルの役割について初めて考えてみた。今まで自分が映画を認識したり分析したりする上で、まったく気づいていなかった視点を導入したことは勉強になった。
ところで、映画の授業は、僕の研究テーマとはほとんど重ならないとこれまでは思っていた(というのは、シカゴ博が1893年で、映画の誕生はそれから2年後の1895年なので)。そして、卒業のための必修科目として、これからはじまる春学期にも映画関連の授業を履修しなければないので、いささか気が重かった。しかし、今回のエッセイの執筆を通して、スペクタクルという要素は映画だけでなく万博というメディア空間にとっても重要な概念であるということに気づくことができた。
ドゥボールのThe society of the spectacleが図書館にあることがわかったので、今度借りてこようと思っている。
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