▼目次
はじめに
昨年の11月30日、息子と一緒に参加した朝日新聞主催の親子サッカー教室で右手首を骨折し、入院・手術しました。初経験のことが多かったので、体験記のようなものをざっと書き綴りました。
骨折から手術を含む一連の流れ
11月30日(日) 親子サッカー教室の試合中に右手首を骨折
12月 2日(火) 手術決定、術前検査
12月 6日(土) 入院、手術
12月 7日(日) 退院
台風によるリスケジュール開催
朝日新聞主催のサッカー教室、もともとは秋開催の予定でしたが、台風のためキャンセルになり、11月30日はリスケジュールされての開催でした。
スポーツセンター
会場は埼玉スポーツセンター。前回訪れたのは、5年くらい前。高校時代の友人とボーリングやバッティング・マシーン、パターゴルフなどで遊びました。当時、場末のひなびた遊戯施設といった印象だったのですが、久しぶりに訪れてみると、施設が一新していました。またゴルフ練習場やフットサルコートなど敷地面積も拡大し、大幅な設備投資をした模様。
北澤豪氏がコーチ
サッカー教室は、元日本代表の北澤豪氏が直接、解説するだけでなく体を使って実技を見せてくれました。
子供たちにとっては元選手というより、テレビのサッカー解説者というイメージが強いと思いますが、実際プレイを見せてもらうと動きに切れがあり「わぁ」「すごい」という声が参加者からあがります。
ハラ落ちするトラップ指導
私自身、中学・高校とサッカーをやっていたので(ポジションはミッドフィールダーとゴールキーパーがそれぞれ2年くらい)、子供たちと近所の公園でサッカーの練習につきあったり、簡単な基礎指導をする機会もあります。
その中で、トラップの仕方、必要性なども伝えたりするのですが、子供たちは蹴る方に夢中で、なかなかトラップまで気持ちがまわりません。北澤氏は次の動きにスムーズに移るためのトラップの重要性を具体的かつ体を使って教えてくれ、個人的にもものすごく勉強になりました。
教室メニュー
サッカー教室のメニュー自体はオーソドックスに、開会式、アイスブレーキング、パス、トラップ、ドリブル、二人もしくはチームでのボールキープの練習、最後に、チーム単位の勝ち抜き戦、終了式という流れでした。
本気にさせる仕組み
基礎練習の後は、ビブスで色分けしたチーム同士で勝ち抜き戦。前半は、子供たちだけ、後半はその親たちだけで争います。 私と息子は紫ビブスのチーム。
子供たちだけで戦った前半が終了し、いよいよ後半、私たち親の出番です。前半を終えて紫チームは0-1で負けていました。
試合の流れの組み方に関して、後から絶妙だな、思いました。自分の子供が同じチームで先に戦って、得点でビハインドだったりすると親としては本気にならざるを得ません。大人を本気にさせるトラップが埋め込まれていた(?)のです。
この仕組みにまんまとハメられて(?)ピッチに出た私の頭にあったのは「まずは一点取って、同点に」ということでした。 試合が始まって3分くらいで、自チームでサッカー経験者は半分くらいという感じでした。相手チームの方が経験者は多く、パスがつながる率が高い。
最初、中盤右あたりにポジションを取っていたのですが、攻められやすかった左ポジションに移りました。その後、私も何度か相手ゴールに攻め込み、2本ほど惜しいシュートを外しました。
開始から6・7分後くらいでしょうか、相手に攻められ、ディフェンスにまわっていた私はパスカットに成功しました。 左サイドを中央を見ながらドリブルで上がって、ゴール前のチームメイトにグラウンダーのパスを送ったところまではよかったのです。
その後がマズかった。わりとトップスピードの状態でパスを送ったため、ブレーキをかけようとしたところ、バランスを崩して転んでしまったのです。
たまたま右手で体を支えようと手を出したところ、人工芝のピッチに手が瞬間的にがっしり固定され、全体重とドリブルしてきたスピードをその右手が支える形になりました。 そして、襲いかかる鋭い痛み。一瞬にしてこれはやってしまったな、とわかりました。
立ち上がってから、右手に目をやると手首あたりが今まで見たことのない形にうねってゆがんでいました。骨折もしくは重度の捻挫かな、とその時は思いました。
その後は、積極的に試合を作る役割は正直できず、中盤のディフェンスに徹し、結局スコアは動かず0-1でゲーム終了となりました。
視界が真っ暗に
コートの脇で、痛みに耐えつつも、子供たちの次の試合が始まるのでそれを観戦しようとしていたところ、目の前がどんどん暗くなってきました。右手首で体の末端に近い部分だという認識があり、甘く見ていましたが、どうやら体にとってはかなりインパクトのあるアクシデントだということのようです。
そこで、同じようにコート脇にいた奥さんにこれはまずそうだ、ということを伝え、救護担当者のいるところまで移動しました。椅子に座って、応急処置をしてもらっているタイミングで目を開けていても視界は真っ暗になりました。 しばらくベンチで横になっていましたが、少し落ち着き、視界も戻ってきたタイミングで奥さんの肩を借りて車のシートまで移動し、そこでサッカー教室の終了をひたすら待ちました。
サッカー教室終了
サッカー教室終了後、休日診療をしている大学病院の受付へ。そこで女性の看護士さんに「あなた、うちの学生さん?」と言われ「違います」と即答。41歳男性としてちょっと複雑な気分。 診察まで少なくとも2時間以上待つ必要があるとのことなので、一端自宅に戻り、痛み止めを飲んで待機。
再び大学病院に行き、レントゲンを撮った後、見た目30代後半男性、メガネの医師によれば「2カ所折れてるね」とのこと。
「今のタイミングなら、戻して固定できるかも?」ということで、そこから麻酔をし、骨の位置を医師の力技でぐりぐり戻してからギブスで固定するような施術を受けました。 その後、レントゲンを再度撮影。
その結果を見た医師曰く「全然変わってない」ので「専門の医師による手術が必要」とのこと。大学病院は手術できる余地がないため専門の整形外科医のいる病院を紹介されました。
その日は、ギブスをして、痛め止めの薬をもらい帰宅。
入院・手術が決定
火曜日に会社から半休を取得して、紹介された市内の病院へ行き、診断を受け、その週の土曜日に入院・手術そして翌日帰宅というスケジュールを確認。幸いなことに生まれて一度も入院・手術どちらも経験したことがありませんでしたが、とうとう……という感じでした。 ただし、手術が失敗する確率は極めて低いとの説明があったのと、内科ではなく整形外科の手術なので、体への負担も少ないはず、そんな風に軽く受け止めていました。
手術当日
12月6日土曜日10時に奥さんに車で送ってもらい、市内の病院に入院しました。とはいっても一泊だけなので、荷物も着替えや暇つぶしの本くらいのものでした。
二人の子供たちは、小学校のイベントに参加していたので、入院手続き後、奥さんには子供たちの方に戻ってもらいました。
検査もおおむね終わっていたので、持ってきた小説を読んでいたのですが、手術が近づくにつれて点滴針を入れたり、血を採取したりで両手が使えない状況になり読書はあきらめました。 当初、14:30ごろ手術開始と聞いていて、13:00くらいまで病室での看護士さんたちのやりとりものんびりしていました。しかし急に予定が30分早まったらしく、13:30くらいになるとかなりバタバタしてきました。
「ご家族はどちらにいらっしゃいますか?」その時になって、看護士さんの一人に尋ねられました。 右手の手術だし、手術前後に家族の付き添いもいらないだろうから(と勝手に判断して)「手術が終わって落ち着いた頃、夕方くらいに顔を出すように妻には伝えてあるのですが」と答えました。 すると、
「原則的に手術中、ご家族に付き添ってもらう必要があるので連絡して下さい」と看護士さん。 そこで、奥さんに急遽電話して、事情を伝えるも、手術開始まで数十分前というタイミング。病院は市の中心部から外れたところにあるので、開始のタイミングには間に合いそうにない。それでも、ともかくこちらに向かってもらうことに。
その後、担当医から手術前の簡単な説明を受けたタイミングでも間に合うはずもなく一人で説明を聞く。担当医には、こちらに車で向かっているのでほどなく到着予定と説明。
手術室へ
再度、病室に戻ってから急に慌ただしくなりました。病室のベッドから移動用ベッドに移動。そこから、病院内を移動。4階の病室からエレベーターに乗り、おそらく1階に移動した後、手術室へ。体感的には150メートルくらいの移動でした。
手術室に入ると、映画やドラマで見るような手術室特有のライトが目に入ってきます。ここで、ベッドを2回移動。 その後、水色の帽子とマスクをした若手の医師のような人たちが5・6人わっとまわりを囲みます。 「肩から麻酔を入れます。ちょっと痛いですよ」と言われ、左肩に痛みが走り、液体が入ってくる感覚がありました。 しかし、それ以降まったく記憶がありません。そこから全身麻酔によって意識を失ったようです。
全身麻酔から目覚める
目覚めると、映画の中の1シーンのように、病室のベッドの中で家族や看護士さんに囲まれている状態。さらに酸素マスクもついています。 ぼーっとした意識の中で、奥さんと子供たちに簡単に声をかけた後、手術した右手首に強い痛みを感じたので、看護士さんに痛み止めの処置を依頼。 奥さんから後から聞いたのですが、その時の口調はひどくゆっくり、ぼーっとした感じだったとのこと。私自身は普通に話をしていたつもりでした。
長い夜
家族が自宅に戻ってからの夜がともかく長く感じました。 眠れれば良かったのですが、術後の痛みに加え、前の晩から食事を取っておらず、空腹であること、点滴の針が刺さっているのと全身麻酔中に尿道に管を入れられていたので、その違和感も手伝って一向に眠くなりませんでした。 持ってきたスマートフォンとヘッドフォンで音楽やオーディオブックを聴き、それに疲れると、それらを遠ざけ、目を閉じ、眠ろうと何度かしましたが眠れません。眠ろう、と努力するとかえって目がさえてしまうものです。
そんな中、冬のバイク用防寒着としてWellensteynのジャケットを買おうと思っていたんだよな、と思い出し、手元のスマホで注文。
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自分でも病院のベッドの中で何をやっているんだ?と思いながらも、ちょっとした時間つぶしにはなりました。
(国内生産しておらず、昨年は注文するたびに売り切れ、在庫なしの連絡が店から来る、を何度も繰り返し結局手に入らなかったのですが、今回はきちんと届きました)
体が自由に
5時くらいに見まわりに来た看護師さんに、点滴と尿道に入っていた管をとってもらいました。いざとってもらうと、ものすごい開放感。
ほぼベッドに拘束されていた状態から自分で動けるようになったので、病室をそっと抜け出し、洗面所で片手ながら顔を洗ったり、病院のガウンを脱いで身支度を整えると、気分がだいぶ良くなってきました。 手術した右手首は痛みますが、痛みに少しずつ体が慣れてきました。あとは一昨日の晩から何も食べていなかったので、空腹を満たせれば、それほど不満はないかな、というところ。
再びベッドに入るつもりはなかったので、自分のベッドのわきにあったソファに腰かけ、持ってきた小説を集中して読んでいました。 読んでいたのは村上春樹の『スプートニクの恋人』。
大学生の時に買って読んで、自分の書斎の本棚に入っていたのですが、そもそも強いインパクトがあった本ではなかったので内容をすっかり忘れていました。ほぼ初めて読むのと同じ感覚でストーリーの中に入り込めました。
7時を過ぎたころに、食事が運ばれてきました。まるまる一日断食した後の食事で、正直心が躍りました。 しかし、カレー味の蒸し野菜(薄味)とごはんがメインで、まさに病院での食事だな……と思いながら黙々と食べる形になりました。 もちろん、空っぽの胃に配慮したメニューだということは理解していますが、理性的には「なるほど、そうあるべきだよな」、感情的には「もうちょっと食欲をそそるものだと嬉しいのに……」という感じでした(笑)。
イメージと実際の運動能力のギャップ
骨折に至った原因について分析すると、頭の中でできると思った運動イメージと実際に体で表現する運動能力に認識のギャップがあることを気づけていなかったことに思い当ります。
前述したように、中学・高校とサッカーをやっていたので、頭の中でボールを多少スムーズに操れるというイメージがあります。しかし、トレーニングもゲームもしばらくしていないので、かつての動きを体が表現できなくなっていたのです。それを踏まえずにドリブルし、トップスピードの状態でパスを出したから、体がついていかず、悲鳴を上げ、転倒、骨折につながったと推測しています。 今後、集中してトレーニングなどしない限り、頭の中のイメージと運動能力の間のギャップを認めて、それを踏まえた無理のない動きをしないけない。年齢からくる体力の衰え+運動不足を前提にした動きが必要だということ。
全身麻酔の威力
今回の体験の中で、すさまじく印象に強く刻まれたのは、全身麻酔のパワー。肩に注射を打たれてから、意識が途切れるまで5秒数えるか数えられないかくらいのタイミングだったようです。病室で目覚めるまでの間の意識・記憶がまったくなく、一度死んで、生き返ったかのような感覚でした。 まわりの経験者から、手術後、疲れや倦怠感に半年から1年間ほど襲われた、という事例をいくつか聴き、そういうこともあるかもしれない、と覚悟していました。しかしながら、手術から一か月以上経過した今、そのあたりの感覚はまったくないので私の場合は、大丈夫だったようです。
手術で埋め込んだ金具の行方は?
私が受けた手術は骨折した箇所が再び自然な角度で動かせるよう骨をボルトと金属で固定するタイプのもの。
この話をすると、よく質問されるのが「いつそれを取るの?」というもの。 私自身も疑問に思ったので手術前に担当医に尋ねてみると次のような回答でした。
「一般的に欧米などの海外では取り除かないでそのままにしておくことが多いですね。一方、日本は取ることを希望する人のほうが圧倒的に多いですね。取ってもとらなくともいずれでも大丈夫です。実際に、判断するのは手術して半年後くらいになりますので、その間にどうしたいか考えてくれればいいですよ」
そうしたわけで、現時点で私自身どうするか決めていません。 ところで、かつて霞が関で○○省と名がつく場所によく仕事の関係で出入りしていた時期がありました。その中でも、外務省が一番警備に厳しく、中に入るには金属探知機でボディ・チェックを受けていました。今の状態で行けば必ず引っかかることになりそうです。
幸いにも、現職では官公庁に出入りするケースは皆無なので、その心配はありません。 それでも、飛行機に乗るときは金属探知機のゲートをくぐるときに出来の悪いコントのように必ず警告ブザーが鳴るようだったら、ちょっと面倒だなあ、とぼんやり考えています。
おわりに
そんなこんなで突然の骨折にはじまり、生まれて初めての入院・手術が終わりました。 さて、もう一度体験したいかというと、それは勘弁願いたいというのが正直なところです。当たり前ですね。
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