「守・破・離」(しゅ・は・り)という言葉をご存知ですか?
この言葉の本質部分に関して自分が思い違いをしていたことに最近、気がつきました。
「守破離」は能楽を確立した世阿弥の教え。物事に通じていく段階を説明するさいによく使われています。
photo credit: blinkingidiot via photopin cc
一般的には次のように説明されています。
・「守」は、師の教えをしっかりと守り、基本を身につけることを徹底する段階
・「破」は師の教えを破る行為を試して、自分なりの発展形を模索する段階
・「離」は指導者のもとを離れ、自分自身で学んだ内容を発展させていく段階。
私もおおむね上記のように理解していました。
しかし「破」以降の説明は世阿弥が本来その言葉にこめた意味の本質とは外れているようです。
「破」を「破る」という風に理解することから、このあたりのズレが生まれてきたようで、本質は「ひらく」という意味なのだそうです。 「守」で師の教えを守り、鍛錬を積み重ね、愚直に型を徹底していくと、それが身についてくる。それが意識せずとも自然とできるようになる。そうした境地を本来は「破」、「ひらけた」段階となる。
それをさらに徹底していくことで、その型の背景にあるを本質への理解に至り「離」の境地に達する。大切なのは、本質を理解することで、基本の型にこめられた重要性を再認識することなのでしょう。
したがって、守破離は単純なステップアップの話ではなく、「基本にはじまって基本に終わる」という のが本来それに込められたエッセンスなのだと私は最近になって確信するようになりました。
photo credit: ADD Photography via photopin cc
このことを理解した後で、自分の人生を振り返ると合点が行くことが多々あります。型を愚直に徹底すると、実力がつくし、成果も出やすい。
個人的には、TOEFLテキスト音読の徹底→TOEFLスコアの取得→財団から奨学金を得てイギリスの大学院へ留学、これが型を徹底したことによる私のわかりやすい成功体験です。
一方で、型の徹底が浅いまま、あれこれ手を出したものに関しては、結局のところ、結果を出せていません。自分で振り返ったときにも、「ああ、中途半端なことをやっていたな」と反省することしきりです。
目の前の壁を突き抜けたい、ブレークスルーを起こしたい、そんな時こそ「型」に象徴される「小さな行動」を徹底することが一番大切、そんな思いをあらためて強くしています。
コメント