Good Bye Internet .comさんのところで知ったのだが、韓国の 『中央日報』(日本語版) に、タイトルのような記事が紹介されている。実際の記事はこちらを参照。
この記事によれば、「白人学」は英語でWhiteness studyということになるらしい。アメリカ国内白人学講座は約70カ所もあるというから驚きである。個人的にはすごくいい動きだと思っている。マイノリティー側からの一方的な告発、というよりは多面的で双方向的なアプローチがあったほうがいい。この記事で展開されているような白人の自己反省を促すような授業が増えれば、長い時間をかけて権力を持っている白人側の価値観を少しづつ変えていくことができるかもしれない。そんな期待がある。
こんにちは。TrackBackありがとうございます。
この話は、僕らの身近なところにある
いじめの問題や身障者の暮らしにくさといったことにも
大いに関係がありそうですね。
アプローチとしては「コロンブスの卵」的でもありますが、
考えさせられるニュースだと思いました。
今、アメリカの大学で「白人学」のクラスをとってます。
実際何をするのかわからずに履修したんですが、
思いの他面白いです。
まだ新しい分野だし、僕の学校でオファーされたのも初めてで、手探りでみんなでやってます。
もちろん WhiteとPeople of Colorが理解し合い、より良い社会をつくろう、とうのが大前提です。
しかし内容はもっと広い感じがします。
例えば、カリフォルニアで言えば、数十年後にはWhiteよりもPeople of Colorの人口が多くなってしまうと予想されています。そこで、白人の立場がどうなるか、マイノリティーとして、どうやって彼らのアイデンティティーが変化していくか、そんなのもマテリアルのひとつです。
クラスの中には白人が70%。
時々泣きながら彼らが考えや経験、感情を話し出すことも少なくありません。
セメスターを通じてのプロジェクトとして、「Whiteness Fair」をキャンパスで行うことを計画しています。ちょっとした「Whiteness Study を広げよう!!」みたいなものですが…。
また、面白いことやったらPostします。
確かにカリフォルニアには、ヒスパニック系と
アジア系が多いですよね。
ヒスパニックの人口が軒並み上昇しているという
レポートを読んだことがあります。
Whiteness Fairにどうやって
Poeple of Colorが建設的な役割を果たすのか
とても興味があります。
貴重な投稿ありがとうございました。
今後の展開もよかったら教えてください。
このクラスで一番驚いたのは、アメリカ人が使う Racial Identity としての “white”の意味。白人達は白人優位主義の中で、自分達が特別なのではなく、自分達が norm, average,且つ standard だとしてきました。その結果が文化的、民族的背景の欠落した “white” とういう人種的なカテゴリーです。例えば経済的、社会的に “white”(standard) に達することのできない白人たちは、”white trash” という別のカテゴリーに振り分けられます。”people of color” はそのような特別なカテゴリーはありません。
もうひとつ面白かったのが “awareness of the privilege” です。ぶっちゃけ、セメスターの最初は、白人の生徒達がいかに彼等が “privileged” か気付いていないかに腹がたったもんですが、先生がいきなり、利き手の話を始めました。クラスの中にふたり左利きの生徒がいて、それがどれだけ不便かを話し出しました。そのとき初めて(僕は右利き)、自分がどれだけ “privileged” か気付きました。フォークとナイフ、はさみ、クラスで使う机(いすと合体したやつ)、ドアノブ、キーボードのテンキー。社会のほとんどが右利き用につくられていて、自分が右利きなだけで、その好都合さに全く気付かずにいました。そのとき初めて、”priviege” の “invisiblity”の意味がわかりました。白人の生徒が白人のそれに気付かなかったことも責めれないなぁと思いました。
時々日本のことを考えます。将来、日本にたくさんの移民が入ってきて、その時日本人がどう反応するかです。愛国心が乏しいわりに、ナショナリズムが強い日本人。すでに外国人犯罪がクローズアップされていて、これからの日本の人種的認識に不安を感じてなりません。
利き腕の喩えは絶妙ですね。本人が意識していなくても、さまざまな社会的文脈によって個人や集団は特権を持ちうる、ということですよね。たとえば、Takさんや僕のように海外で一時的に生活している者はそれだけで外国人というマイノリティの枠組みに属するようになりますよね。
話の方向性はちょっと変わりますが、先に黒人の市民権運動からBlacknessへの問いかけがあって、今Whitenessを問いかける動きが活発になってきているように思います。(Takさんも、おそらく僕と同じような人種に属する日本人だと想像しますが)さて、われわれ自身は自分たちのおかれた人種的・社会的文脈をどう捉え直せばいいのでしょうか。Yellownessという表現はばかげていると思うのでAsian-nessやOriental-nessぐらいに落ち着きそうですが、この問題を考えるとかなり複雑な気がします(まあ、エドワード・サイードなどの研究者はこの問いに答えようとしてきたわけですが)。中東と極東ではずいぶんその意味合いが異なるだろうし、同じ極東でも時々日本と中国はまったく違う国のような気さえします。BlacknessやWhitenessはあるていど包括的に語れる気がしますが、Asian-nessやOriental-nessは文脈をかなり具体的に狭めてからでないと語りにくい気がします。このあたりのことを今後もうちょっと考えたいと思っています。
日本国内の人種的認識に関して面白いと思ったのは、一部の日本人は中東出身の肌の色の薄い人々を単純に白人だと認識しがちだということです。そういった中東出身の人々は自分たちの有色人種としての肉体的な特徴を意識しているし、アジア人としての自覚を持っているにもかかわらず、一部の日本人は彼らの肌色だけに着目して、白人だと認識することはおおいにあるのです。そこには、人種的なことであまり煩わしい思いをしてこなかった日本の平和さが現れている気もしますし、人種という概念が社会的な文脈で構築されてきたことを物語っている気がします。
イギリスに住んでいると、イギリス人は中東の人々をアジア人、中国や日本などの極東地域出身の人々をオリエンタル、といったふうに明確に分類しているように思います。アメリカ側からだと、アジア人とひとくくりにしてしまうところですが。こういった人種や民族に関する認識は地政学的なものにも大いに影響を受けるように思います。