午前9時20分に、池袋にある東京芸術劇場に行く。本日は、大学でお世話になっている此経啓助教授の講演をビデオ撮影する仕事をいただいたのだ。教授は、学園紛争があった時代に芸術学部文芸学科の助手をされていたが、その後、インドの大学で教鞭を執られてから帰国。インド滞在はのべ6年にも及んだ。帰国後、宗教考現学研究所を設立、文芸学科の非常勤講師を経て、本年度から教授に就任された。
講演は、宗教考現学研究所発行の新聞 「てらも~で」の購読者、「てらも~での会」向けのイヴェントとして行われているようだが、一般にも公開されている。また、講演は衛星放送スカイパーフェクトTV 216チャンネルでも放送される。
今回、僕はそのスカイパーフェクトTV用のための映像を撮影することになっていたのである。大学のTAや学外の勉強会でビデオを回すことは、昨年くらいからずいぶん頻度が増して慣れつて来つつあるが、報酬が発生する仕事は初めてだし、それがいきなり衛星放送用の映像ということで、いつもより入念に撮影前のチェックを行った。音声状態を確認するために、ヘッドフォンをつけっぱなしにして撮影したのも始めてであった。
しかし、此経教授の講演が始まると、いつもより画面上の構成やバランスに気を使ったくらいでふだんと変わらない感覚でカメラを回せた。
講演のタイトルは「生活の中の仏教」で、主にお墓のさまざまな文脈での位置づけがテーマだった。正直なところ、自分の死やそれをめぐる周りの状況などについて、今まで真剣に考えることを僕はしてこなかった。まだまだ、ぎりぎり20代ということもあり前のめりの姿勢でやってきているので、そういった人生の避けて通れない本質的なテーマに思いをめぐらすことを意識的に避けていた感もある。どこから手を着けていいやら、とっかかりの部分が見いだせなかったということもある。そんな僕にも、お墓という具体的なものをキーワードに据えて語られる此経教授の話は親しみやすく、自分なりに死について考えるための一つのアプローチの仕方を与えられた気がした。
墓の位置づけを考える道具として、ジャン・ボードリヤールの物的価値と記号的価値を援用していたのが、ずいぶん意外でとても興味深く聴いた。単なる宗教学者ではなく、宗教考現学者である此経教授ならではの問題へのアクセス方法と言っていいかもしれない。
内容を勝手にまとめてみよう。お墓をそれぞれの価値観の中で位置づける方法として、前述したように物的側面とと記号的側面から考えてみたい。墓の材質、墓を作るときの経済的負担、墓を建てる場所などは、物的なものさしによるものである。一方、個人個人の多種多様な死生観や、死後についての考え方を反映するものが記号的価値ということになる。此経教授の結論としては、これまでは立派な墓石をつくる、といったお墓の物的価値観に重きがおかれてきた。しかし、個人の価値観が多様化した現在、そして将来に向けて、記号的価値、つまりお墓に入る者の心に焦点を当て、どうやって葬られることがその人の満足感や幸福感につながるだろうか、ということをより真剣に考える時代にもう既に突入しているのではないか、というものだった。
記号的消費とはどういったことを指すとおもわれますか?
消費というと商品などの物的消費をさすことがかつては当たり前でしたが、現在では、意味や価値などを反映した記号、非物質的なものの消費も人間の消費活動において少なくない領域を占めるようになってきていると考えられます。記号的消費をもう少し具体的に言えば、体験、感動、付加価値、といったものを消費することだとひとまずは言っていいのではないでしょうか。